一文の得にもならない善行/悪行

「一文の得にもならん行為を考えてみる」華麗なる架神恭介
http://curry-blog.cagami.net/?eid=861855
読んでちょっと面白かったので、自分でも考えてみよう、と思った。と言うのも、

例えばだが、他人の幸せそうな様子を見ると性的興奮を覚えるような、そういう特殊な性癖が広まったりすれば良いのだろうか。

これ、僕の趣味に「他人のノロケを聞く」と言うのがあるんですが、ちょっと近いかな? と思って。僕のは性的興奮ではなく、単純に面白いからですけど。特殊性癖かな。でもまあ、それも、性的興奮を得られるんだから『一文の得』ですね。
あと、この話、たとえば子供が遊んでいるのに性的興奮を覚えたら、ロリコンですよね。愚かな犯罪者たちは、その子供を連れ去って、おびえた子供におもちゃを与え、なんで幸福に遊ばないんだ!とキレるんでしょう。(全部妄想です)
話を戻して。
一文の得にもならない善行/悪行というものは…こちらが悪意を持って行動して、相手が善意を持って受け取った場合はどうなるだろう? たとえばイジメ。逆にこちらが善意を持って行動して、相手が悪意を持って受け取った場合どうなるだろう? たとえばシゴキ。
思うに、受け取る側が常に『相手には悪意がある』と受け取った場合、善意に頼らない善行などありえるのか? 逆に受け取る側が常に『相手には善意がある』と受け取った場合はどうだろう? 善意も悪意も善行も功徳も正義も愛も勇気も努力もそうだが『受け取る側(もしくは行う側)が、一方的にそう思っただけ』というだけではないのか。
だとしたら定義するのは二つ項目がある。

  • 「一文の得にもならない」のは、相手か? 自分か?
  • 「善行」と感じるのは、相手か? 自分か?

その二つを明確に定義すれば、見えてくる気がする。
「ちょっとでも気分が良いと自分が感じたら、それは一文の得」と考えるのならば、「善行」を「自分」が知った時点で、すべて成立しなくなる。だとしたら、善行の認識とはどうやってするのだろう? 
と考えていて、ふと思いついた。ああ、そうか。そうやれば「一文の得にもならない善行/悪行」が可能かもしれない、という方法。それは三つある。
ひとつは、挨拶をすること。ひとつは、お礼をいうこと。ひとつは、笑顔でいること。この三つ。これが呼吸をするがごとく自分にとって当たり前になれば、得もなく、損もなく、しかし相手にとっては「善行」となるのではないか?
しかしそう考えると、もし聖人がいて、呼吸をするように善行を行っていたのなら、本人にはもはやそれは善行だと認識できないのではないか? また、一般人で言うなら、例えばトイレでウンコのあとにケツを拭く。それは善行ではないのか?(野生動物は汚物をその辺に放置し、しかもケツも拭かない)全員がそれを当たり前だ、常識だと認識したなら、善行など存在しなくなるのではないか?
やはり「個人がそう思っただけ」というのは覆せないようだ。

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雑記:
現在プレイ中のゲーム DS版ヘラクレスの栄光−魂の証明− 善を証明せよ。現在33時間プレイ中。