眠れる奴隷

凹んでいる時間がもったいない、と、ある人物が言った。
なぜ、そう思ったのだろう、と想像すると、たぶん凹んだからだ。そしてその時間が、無駄だと感じたからだ。
凹む時間、無駄にしたエネルギー、後悔した恋愛、絶望した物語、失望した人生。そのすべてが、今の己を形成している。そのための投資なのだ。
ある修行僧の話をしよう。
その男は修行の身だった。毎日托鉢が嫌でしかたがなかった。托鉢は、坊主が路上に立ち経を読む修行のひとつで、たぶん多くの人が見たことがあるだろう。誰も相手にされない道で経をあげる日々。誰からも見向きも去れず、賃金が得られない日は食べるものもろくになかった。冷たい雨の降る日も、夏の太陽が照りつける日も、彼は托鉢をした。嫌でしかたがなかったが、それが修行だと言われた。そんなある雪の日も托鉢をしていた。彼の足はあかぎれて、足元の白い雪が血に染まっていた。それでも彼は経を読んだ。そのとき、彼は悟ったそうだ。それが最初の悟りだと彼は僕に言った。
彼は今、位の高い僧となり、他に説法を説く男になっていたが、今はその修行の日々が必要だと言った。修行僧の無駄な修行を、無駄とするのは誰だ? 定義するのは誰だ? 無駄にしてしまったのは誰? キミの凹む時間を、無駄にしてしまうのは誰? おそらく、凹む時間がもったいない、という思考は、何度も凹んだ結果に生まれた悟りのひとつだ。その何度も凹む投資をしたから、その思考になったはずだ。だとしたら、それは無駄なのか? 眠れる奴隷で、あることを祈ろう。