本当の理由と、見せ掛けの理由

『理由というものは、誰かを説得するための存在だ』と定義するのであれば、見せ掛けの理由で十分なのだが…。
倫理や常識は、見せ掛けの理由のみで成り立っている。融通が利き、人間的だ。数学や物理は、本当の理由のみで成り立っている。融通などはなく、非人間的だ。他人を説得するとき、この見せ掛けの理由で説得できる人間と、できない人間がいる。逆に本当の理由では、説得できる人間と、できない人間がいる。

財布を落としたときに「どこで落としましたか?」という欄があった。「最後に財布を認識した地点はA。財布がないことを認識した地点はB。その間に移動しているどこか」と答えると、「落とした場所を書いてください」と言われた。バカにしているのか。バカにされているのか。落とした場所が正確にわかったら、落とした時点で拾っている。つまり求められているのは「見せ掛けの理由」である。
単位がとれず学校を落第し、定時制にうつることになった。そのときの定時制にうつる本当の理由は「単位がとれなかったから」とか「学位が欲しいから」である。それが「本当の理由」。ところが、求められている「見せ掛けの理由」は、「定時制だと時間が自由に使えるため」とか「この授業が受けたいから」と書かなくてはならない。バカにしているのか。バカにされているのか。

世の中は、この表面だけがきれいなら、中にどんなクソが詰まっていようとかまわない、という包装紙が求められていることが多い。それを本気にしている人間がいて、実に滑稽だ。「ぶっちゃけ」という単語さえも、表面を撫でるだけで、本質にまったく届いていない。ただ、「本当の理由」が優れているわけではない。結局、その理由では他人が動かせないからだ。
「本当の理由」にしろ「見せ掛けの理由」にしろ、理由を求める連中は、理由に縛られている程度なのだ。両方使え。自分は使える。そう思い込むですじゃ。HBの鉛筆をベキッとへし折るように、できて当然。