利休の朝顔

美術館で絵を眺めていると、ときどき「しつこいな」と感じることがある。これはジョジョを読んでいて「油っぽいな」と感じるのと同じだ。装飾が多すぎる。線が緻密すぎる。ちゃんとした美術館ならそんなことはないんだが、都内にある金をかけただけの美術館だと、絵と絵の間隔が恐ろしく狭いときがある。
ある貴族の家の特集を眺めていた。室内の写真を見ると、壁も床も天井も、いたるところに彫刻がほどこされ、絵をかける隙間もない。椅子もテーブルも硬い部分には彫刻され、やわらかい部分には刺繍がされている。調度品さえ、一部の隙もない。完全に調和していて、その部屋は美しかった。「美術品が飾れないのは貧しいからだ」と貴族は言った。
それは豪華だ。それは緻密だ。それは繊細で。それは裕福だ。
だけど、その先はなんだろう? どこもかしこも、目につくところは美術品で埋め尽くした、ではそこが限界なのか?
千利休という茶人がいる。ある夏の日、利休は秀吉を招いて茶会を開いたとき、庭先に咲いていたすべての朝顔を切り取った。そして茶室に一輪だけ、朝顔を飾ったそうだ。さて、今、テーブルの上にあふれているフィギュアや、美術品で埋め尽くされた室内で、君は一体、何を見る? そこが美の限界か?