老人から見た超高齢化社会の問題点

なんか数日間、マジメな話が続いているのでネタにしようかと思ったけど、あんまり思いつかないので、クリスマスに実家に帰って、家族で食事をしたときの話。あ、家族でクリスマスを過ごすのは、モテないからじゃないです。キリスト教徒だからです。ミサに行くからです。まったく昨今の性夜にはいい加減にしてもらいたいもんですね。プンプン。もう一回言いますが、モテないからじゃないです。ええ。全然。ホントに。ケーキも。食べた、し。両親が取り分けてくれたヤツを。「たーんとお食べ。普段食べられないんだろ?早く孫の顔が見たいねぇ」とか妙に気を使われながら。弟はデートがあるから遅れるって言ってたけど。いいもん、妹の手料理も食べたしね!(妹のカレシが隣にいたし、別に妹の手料理だからどうした、むしろ僕のほうが料理ならうまいわって気持ちしかないけど、他人がうらやましがるなら言ってやるぜチクショー)
えーと、ようやく本題。
僕の父親はあと数年もすれば老人になり、年金を受け取るような年齢なのだけれど、その父親と話していた内容の一部。祖母が現在入院中の話になり、その中でこんな話をした。
父「おばあちゃんは老人で、トイレも一人ではいけない。トイレに行くのに二人がかりで立たせ、車椅子に運び、移動させる。ウチのおばあちゃんは月間10万円で介護施設に入ることができる。老人だし要介護認定だから、家族は一割負担だ。
だけど、そう考えると老人一人を一ヶ月支えるのに100万円かかっている計算になる。残りの90万円は保険でまかなっている、つまり、どっかの誰かが払った金だ。老人はただ存在するだけで月間100万円、年間1200万円もかかっている計算になる。その分の金を、若い、未来のある、どっかの誰かを与えれば、より大きなものが救えるかもしれないのに、だよ。
私が老人になり、介護が必要になる年齢になる20年から30年後には『一定年齢以上の人間は介護は不要です』と国家が推奨するかもしれないね」

僕の考えとだいぶ近かった。自分が老人になっても、『老人』を客観視できることが真実への道だと僕は考えている。
もちろん父親の言い分と、僕の言い分は違う箇所も多い。僕の考え方では、たぶん「介護不要」なんてレベルではなく、「安楽死」や「尊厳死」、さらには「自害」や「自殺」という『間引き』を推奨していくだろうと思う。少なくとも、自害や自殺を肯定する論調になると想像している。
それは現代社会の正義や倫理とは反しているが、おそらく20年以内で確実に直面する問題であり、そして解決しなければならない問題だろう。JRが2012年に向けて工事を進め、韓国が迎撃ミサイルの配備を2015年を目指して動いている中、日本の超高齢化社会への長期的展望や対策は何かあるのだろうか? 僕はどうしたいだろうか?

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