それでその人が幸福ならば、それさえも認めないといけないのだろう。

宗教にはまり、搾取されつくし、私財を投げ捨て、貧困に生きる人がいた。その財産を食らい、快楽に生きる教祖なる人がいた。どちらも幸福であった。そこに違法性はなく、登場する人はすべて幸福であった。
他人の自由を認めると僕は言う。だからそういった人々さえも、認めなくてはいけない。そういうプログラムで、そういう脆弱性だ。そこに情状酌量はない。気分は最悪で、吐き気を催す邪悪だろうと、ゲロ以下の匂いがするヤツだろうと。そういった代償を払って自由なのだ。そういう絶望を含んで自由なのだ。手放しですばらしいなんていう、幻想ではない。