乖離しているのは何か?

「筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり」という古文がある。思い浮かべれば風情がある程度はわかるが、時代的背景があり、誰がなぜその句をそのタイミングで読んだのか、そういったことを知らないと本当の面白さが通じない。洒落のわかる人だ。
「ぼうやだからさ。」と言うセリフがある。子供を諭すセリフに見えるが、どんな物語で使われたのか、時代的背景があり、誰がなぜそのセリフをそのタイミングで言ったのか、そういったことを知らないと本当の面白さが通じない。オタクな人だ。

両者は同質のものだったのに、昔はお洒落で今はオタクだ。「わかる人だけわかればよい」という「洒落」は、「オタク」となってしまったのだろうか。この変質はどうして起きたのか。なぜ乖離したのか。

理由を考えてみよう。
1.「洒落」というものが、一般化しすぎたのではないか。表面的外装的なものになりすぎた。洒落というものは、もっと潜んでいる内装的な存在だったはずだ。わかる人だけわければよいという切り捨てた発想。そこがお洒落だったのに、みんなが知っている有名ブランドを身に着けることがお洒落になってしまった。センスが良いという単語も同様だ。外装の話なんて誰もしていなかったのに、人は見た目で判断するということだろうか。上記の句も、もうお洒落ではないのかもしれない。
2.「オタク」というものが、一般化しすぎたのではないか。表面的外装的なものになりすぎた。オタクというものは、もっと潜んでいる内装的な存在だったはずだ。わかる人だけわければよいという切り捨てた発想。
3.メディアに依存する。保存メディアが教科書だったらお洒落。アニメだったらオタク(現実は非情である)

さて、本題。本当にその二つは乖離している?(全部ミスリードオチ)