マイナス論、プラス論

「こうなりたい」という人物はいない。「こうなりたくない」という人物はいる。私というデザインは、「こうなりたくない」という人間をみて、そうならないようになった結果存在する。プリミティブから削りだす方式。だけど「こうなりたい」という目標の人間がいたら、そちらのほうが、安全確実に「こうなりたい人間」になるんじゃあないか、と時々思う。「こうなりたくない人間」を削っていって完成した人間は、本当に僕の目指した人間なのだろうか。なりたくない人間ではない。だがなりたい人間でもないかもしれない。なりたくない人間になっていないだけマシかもしれない。(そんなの「思い込んでいるだけ」の違いなのだろうけれど、それは幸福論と同じだ)