合理性とか合理的とかは所詮、合理に過ぎない

人と人が共同生活をするのはなぜか、考えたことがあるか? それは人が貧しいからだ。脆弱だからだ。イワシを見ろ、なぜ集団で生活しているか、それは固体が弱いからだ。
人が独り暮らしをするのは、独り暮らしができるのは、あきらかに豊かだからだ。核家族化が進んだのは、豊かになったからだ。昔はガマンして他人と暮らさなければならなかった。村集落と言った単位に依存しなければ生きていけなかった。今は豊かだから、個人で生きていける。
独りである、ということは、豊かである、ということだ。寂しさは、望んで手に入れるものだ。共同生活でコストダウンなんてのは、当たり前のことだ。会社が存在するほうが、社会が存在するほうが、コストダウンするから存在している。
むしろ共同生活とは、コスト以外に利点はない。独り暮らしはどう見たって合理的ではない。コストもかかるし、無駄が多い。そんなのは当たり前のことだ。そういう無駄で無意味で非生産的なことを、望んでやっているのだ。
もし、不況でコスト問題が発生しているのならば、解決方法は簡単だ。他人と共同生活をすればよい。家族なんて小さな単位ではなく、もっと大きな単位だ。核家族化を止め、個人を殺し、個性をつぶし、そうやって集団で生活し、助け合い、村に依存し、町に頼り、仲良しこよしにやればよい。何も悪くない、実に合理的だ。だが、その程度のことだ。