感情論を言っているのはどっちだ?

「死刑という制度をなくそう」という話をすると、絶対に出てくるのが「お前の家族が殺されてもソレがいえるのか!」という人。うーん。なんだろ。なんかズレてる気がする。何がズレてるんだろ。僕だったらなんて答えるかな。
「僕の家族が殺されたら、僕という個人は犯人を、死刑にして欲しい、と言います。しかし僕という立場は、死刑を廃止してほしい、と言うでしょう。そっちのほうが国外交渉に有利だからです」
ワールドワイド視点から、今後国家として、どう動くのが、自国にとって有利になるのか? という問いで、答えは「死刑廃止」というだけのことだ。個人的にはまったく反対で、どんどん殺したらいいと思っているぐらいだと考えていたとしても、それは個人的感情で、個人的な意見で、個人的な論理だが、それだけでしかない。どうしたら国益として有利になるかの話ではない。
これは北朝鮮拉致問題も同様。個人とか、家族の人たちがカワイソーだとか、そんな単位の話をするとズレると思う。
いろいろな話し合いで、歩み寄りが見られないのは、こういう二次元的な線の問題を、一次元的な点の問題として取り上げるからだ。点は「死刑廃止」であり、線は「今まで」と「これから」を結んだものである。(たぶんもっと要素が増えて、多次元的に考える必要があるだろうけれど)

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僕は死刑制度反対でもないし、賛成でもない、不定です。不定なので、すぐに反対のことを言い出すこともあるでしょう。ただ、これを議論している両方が「自分は正しい」と信じて、そう行動してるんだろうな、とは思う。
しかし、欧米の民意は、なんで死刑廃止になったんだろうなぁ…たぶん一人のバカがいて、そいつの意見に多くのバカが賛同したんだろう。まあ、現在、死刑なんてそんなに重い罰でもないのかもね。民意とはなにか、とはまた別のお話か。