「貧しいものに施す」という高潔な思想は、いかにして失われるのか?

なんか自分で書いていて思ったのだが、「強要される善意」というものに、拒絶反応が大きく出る。たとえ恩人だろうと「やってあげたじゃん」とか言われると「知るかボケ!」と言ってしまう。僕は、そういう小さい器に作られているのだろう。多くの人は、それを許容できるのだろうか。
イスラム世界は「貧しいものに施す」というシステムがある。施すことで、富める者が救われるというシステムだが、逆手に取ると、貧しいものは施されて当然という態度になる。事実、イスラム圏には、乞食組合があり、物乞い同士の縄張りが荒らされないようになっている。僕の嫌いな形状だ。
「癒し」もそうだし、「救い」についても同様のことを考えている。これらは、「施される側に、勝手に状態変化が起こる」のであって、「施す側」も「施される側」も、相手に何一つ求めてはいけない。求めることが僕は許せない。僕は、そういう小さい器に作られているのだろう。
そういう「善意の形状」が他にも存在すると予想している。