パロディの限界値

「君ある」終了。一番よかったのは、九鬼揚羽です。
なんかねぇ、正直、あんまり楽しめなかった。悪くはない。いや、むしろかなり良いデキだろう。だけど、なんか…期待しすぎだったのか、それとも僕が年老いたからなのかはわからないが、のめりこめない。プレイしている最中、違うこととかしてたし。結局、集中していない。これを見たい!続きがどんどん読みたい!とも思わない。もう僕が適応年齢を超えているのかな、とも思うんだけど、もしかしたらパロディの限界値なのかな、とも思う。
タカヒロ大亜門は、似ている』とどこかで見たことがある。わかる気がする。二人とも、そういうパロディが得意で、両方面白い。表現者として、それぞれジャンルは違うけれど、パロディの作り方が似ているのだ。
で、大亜門の漫画でも思ったんだけど、パロディって、結局モトネタを知らないと、いまいち盛り上がれない、という欠点がある。昔は、オタクコンテンツの量がそんなに多かったわけではないので、どれでも追っていけたし、ネタももらさず気づくことができた。しかし、今、オタクコンテンツは溢れかえっていて、すべてを追うことはできない。パロディのモトネタがわからないため、楽しめなくなってしまう。パロディ作家は、ネタが多くなり作りやすくなるが、結局密度は薄まってしまう。ジャンプにより多くのパロディを使っている大亜門でさえ、わかりずらいとか、気づかなかったなんてことも多くある。エロゲーでどこからでもネタを持ってくることができる『君ある』は、余計にモトネタがわからない傾向になるだろう。このように、オリジナルが多くなりすぎることで、パロディコンテンツを楽しめなくなってしまうからではないか。
だとしたら、パロディ作家はどうやって生き残るのだろう?