オタク道

たとえば、僕はジョジョオタだけれど、荒木先生のサイン入り色紙を買うために10万円を払うか?といわれると、たぶん払わない。ところがそれを払うオタがいることを知っている。僕よりももっともっとオタな人だ。
たとえば、僕は自分ではまだまだオタだと言えるほどミュージカルを見ているわけではないけれど、レ・ミゼラブルの全員の台詞が唄えるし、5人ぐらい同時に歌うところの歌詞も知っているので、聞き分けることができる。
しかし、もっともっとオタな人がいて、今年の全キャストを見なくては気がすまない人とか、さらに気に入ったキャストは何度か見てみるとか、舞台俳優に花を投げる、なんて人もいる。そういう人を知っているので、自分はまだまだオタを名乗るほどではないのかな、と自重したりする。
ところが、多くの何も知らない人から見たら、僕も重度のオタも、同じなのだ。つまり、そうやって「自分より上がいることを知る」ことが、すでに重度のオタクなのではないか?と最近考える。
自分はオタだと思っているけれど、僕よりもっともっとオタな人を知っている。上を見たらキリがなく、道のりは激しく遠いが、いつの間にか自分もその道を歩いていて、後ろを振り返れば多くの人が彼岸に見える。
偉ぶるわけではない。多くの人がそうやって少しずつ偏り、オタク化している。それは裕福だからだ。巨人大鵬玉子焼きの時代ではない。全員が一つの娯楽を楽しむ時代じゃないと思っているだけ。