煮詰め中

善意に包まれてしまった悪意

ちょっと、考えている思考がある。なかなか煮詰らない、しかし確固として「それはある」と感じる。まるで宗教家の見る神のように。ただ、自分でもうまく表現できず、また理解もできず、飲み込めもしない。まだ煮詰めている最中の、そんな思考。
それは「善意」というものの中の「悪意」である。
「自分のために他人に施す」という「人のためならず」という精神は、まったく逆に「人に施すことは自分のためになる」という精神に変換されることがある。たとえば「これ、健康にすごくいいから!」と他人に薦める行為で、自分に中間マージンが入るとしたら、それは善意と呼べるのだろうか。
世の中の全てが善意で構成されているとしたら、警察も政治家もすべて無給で成り立つはずだが、そんなわけはない。つまり善意ではなく、仕事としてやっているのだというプロ意識がなければこまる。(※ボランティア問題について)それに対して、前者の行動は、明らかにプロ意識の欠落だ。それを善意という甘い飴で包んでいるだけだ。
金儲けは悪いこと、と思っているから、そんな飴で包んで自分を保護しているのだろうか。まあどっちにしても、宗教勧誘のように気持ちが悪い。自分は正しい、自分と同じ思考をすれば幸福になれる、自分はそうやって幸福になった、という善意の押し付けが、争いを生んでいる。宗教戦争のようなものだ。どちらも善意で行動している。
たとえばエロゲで僕は姉属なので、「これサイコウ!」と、ここに書くとする。しかし他人がそれをやってサイコウ!と思うかどうかは、僕には関係がない。勧めることもしない。やりたいことは勝手にやればよい。また、他人からのオススメもあまり聞かない。自分で勝手に探して、勝手にやっている。(※情報の方向性について)
善意というものも、悪意というものも、基本的には他者に干渉するときにのみ観測される。意識というものは自分から生まれるものなのに、自分の中だけでとどめることは少ないのだろうか。他者に対して、よりよくしてあげたい、他人のためになりたい、という意識は、世界を平和にしていることは確かにあるが、それは本当にそれだけなのだろうか。そういう人間を見ると、正直気持ち悪い。自分のためだとなぜ言えないのか。僕には包んだ飴が甘すぎるのかもしれない。

ボランティア問題について

ボランティアを見ていて勘違いしているなぁ、ということはよくある。たとえば、無給で老人介護に行った。老人から無礼を働かれたら「無給でやってあげているのに!」と憤慨してやめていく人間がいる。もちろん老人に非があるが、ではボランティアをしていた無給で働く善意の人には非がないのだろうか。もしこれが有給だったら「仕事だから」というプロ意識が働くはずだ(働かないならプロとして失格で金を貰う資格はない)また、ボランティアを受ける老人側も「彼はボランティアだから、この程度で仕方が無い」という認識を持つこともある。もし有給であったなら、そんなことは言わせないはずだ。問題があったら解決してほしい、と言うべきだろう。それがプロというものだし、それが給料を貰うということだ。ボランティア(無給)が常に正しく動くというわけではないが、ボランティアを否定しているわけではない。そういう側面がある、と言っているだけだ。そしてそういう側面を知らず、ボランティアはもろ手をあげてよいことだ、という認識は危険だ、と思っているだけだ。

情報の方向性について

ポストにチラシが入っている。まったく見ないでゴミ箱に捨てた。最近の情報というものの方向性は、クライアント→ユーザではない。ユーザ→クライアントである。必要な情報、ほしい情報は、ユーザが探しに行く。新聞もテレビも同じ傾向にあって、情報を流す側(クライアント)にあわせてユーザが見に行くのではない。ユーザが見たいものを、クライアントから探してみるのだ。おそらくだが、いままでは情報が少なかった。ところが今はたくさんある。ユーザが選べるほどに情報過多なのだ。今時、チラシなんて誰が見ているのか知らないが、認識が古い。
それとも、多くの人は、いまだにそんなものを見ているのか?自分の周りには、そんな古い人間がいなくなっているので、ときどきこういう認識がずれていることがある。注意が必要だ。



長い。煮詰まっていないからだが。煮詰めればきっと完成する気がする。煮詰める必要があるのか?という疑問もあるが、身近にそのような危険な善意の人間がいるので、防衛しないと被害が拡大しそうだ、と思っている。だから煮詰めたいのか(書いていて気づいた)