原作を超えることはできるか?

漫画でも小説でもアニメでもドラマでも映画でも、いろんなメディアがあり、物語は変質してつながれていく。電車を待っていると、隣にいた女子高生二人組みが話していた。「ねえ、セカチューみた?」「みたみた、私、コンビニで読んだ」なるほど、彼女らのいうセカチューはどうやら漫画のようだ。小説が原作であった。それらが映画化された。漫画化された。どのメディアに入っていると、私が触れる確立が高いだろうか。私はテレビを見ないので、きっとテレビメディアに入れられた作品は、私の元には届かない。冬のソナタエヴァンゲリオンも見ていない。きっと漫画や小説にパッケージングしなおせば、見るかもしれない。もちろん見ないかもしれない。(実際、漫画や小説化されているようだけれど)
コピーは、劣化する。おそらく他人を通すだけ、情報が湾曲するのは、マスメディアを見るとよくわかる現象だ。情報が顕著化することで、オリジナルからどんどん本質が離れていく。だから、きっとドラマの漫画化や小説化したものを読まないんだろう、と自分では思っている。
しかし、原作があるということは、それだけエネルギーがほかに使うことできる。オリジナルを作成するエネルギーの分量だけ省エネで、後発のほうがオリジナルよりも多種多様に変化させるだけで幅が広がるわけだ。「ショムニ」なんかは漫画が原作なのに、ドラマのほうが有名になったしね。
前置きがすばらしく長くなったけれど、(前置きは全て削除してもいいぐらい)山下和美の漫画「不思議な少年」はマークトゥエイン原作の小説だ。どこにもそのことは書かれていない。それぐらい原作とは違うものになっている。だが、精神がそちらを向いている。超える超えないなんて二次元的表現を超えて、どちらもすばらしいと評価したい。それが超えるということか。

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