正義の偽装、悪の偽装

素直さ、というものは意外と難しい。
素直に物事を見た場合、すり込まれている土台の部分が揺るぐことがある。たとえばトイレなんかわかりやすい。動物としてみれば、どこで糞尿したっていいわけだが、それさえも刷り込みによってコントロールされている。素直さから離れている。
悪を行うと少しだけ素直さというものを見つめることが出来る。自分の考えている素直さなんてものは、たいてい偽装されたものだ。たとえば暴力なんかそうだ。暴力が悪いことだと言うことはわかる。しかし暴力的になることはあるだろう。なぜ暴力がふるいたいのか。素直に考えてみよう。本当にそんなものを望んでいるのか。そう考えていくと、暴力がふるいたいなど二の次で、本当に望んでいることは別のことであることが大半だ。たとえば自分の意見を通したいとかだ。それが通らないから暴力に頼っている。暴力は方法であり、素直な望みは別にある。悪でさえ、素直さから偽装されている。
正義のほうがずっと偽装されていることが多いはずだ。素直さから離れている。
でも、たぶん、ここからは性善説だけど、素直さを追求していくと、結局正義になるだろうな、と思っている。周囲を気持ちよくしたい、という素直な欲求になっていく。
昼間、空を見上げると星が見えないのは、太陽光に支配されているからだ。星空はいつだってそこにあるのに、見えない。素直に物事を見るということは、星空を見るということだ。
たしかそんな内容だったはずだ。どこかの小説の一遍だ。今でもそれを信じている。